明厳寺について

【概要】


宗 派 : 浄土真宗本願寺派

 

山 号 : 松光山

 

寺 名 : 明厳寺

 

住 職 : 第二十六世 髙田義紀  

 

所在地 : 鯖江市中戸口町十九ノ十六


【寺史】


 創立開祖年号は不詳。元来、慶應寺といい天台宗あったと思われる。昭和四十七年 田中幸編 「村史 ふるさと北中山」には、天台宗と記されてある。また、境内にある石碑にも元は天台宗とある。

 

 文明三年(1471)吉崎(あわら市)に布教のために来られていた蓮如上人の、み教えに帰依し、「ただ念仏申すしかない」と激心し、浄土真宗に改宗することになる。改宗の折、寺号を勝慢寺にとし、その後、室町時代末期、門徒たちに惑乱あり(一向一揆)時の住職これを鎮め寺号を明厳寺としている。 

 

従是當院代々記によると、画像阿弥陀如来一体頂戴ここに安置ス 御裏書戸口保中村 勝慢寺これ有とある。次に節目を向かえたのは江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)住職善隆、本願寺十二代門主 釋 准如から顕如上人真影、慶長十一年(1606)和朝親鸞聖人御影を下附される。現存する御裏書には、興正寺門徒 越前国戸口保中村 明厳寺と記載がある。注目される事は、本願寺と激しく対立していた、織田信長、豊臣秀吉の政権下では本願寺門徒と名乗れず、興正寺門徒を隠れ蓑に生き延びた可能性がある。

 

天正元年(1573)八月、越前国 朝倉義景を攻めた一乗谷の戦いでは、居館や神社・仏閣が放火され三日三晩炎上したと伝えられている。織田軍は激闘 刀祢坂の戦いで勝利をおさめ敗走する朝倉軍を追い詰め敦賀、今庄と越山し越前府中(旧武生市)に着陣した。織田信長をはじめ、豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家と歴史上に名をのこす名将たちが越前の地を踏んだと伝えられてる。

 

一乗谷への侵攻の際、明厳寺のすぐ脇を織田軍が進軍した可能性があり、焼失をのがれたのも興正寺門徒としていたからかもしれない。また、朝倉義景は対立関係にあった本願寺門主 准如と和睦し、娘を准如の長男教如に嫁がせており、織田信長の逆鱗に触れ一乗谷炎上の一つの要因になった。本願寺は、時の政権や権力者に翻弄され続けた悲しい歴史があったことはいうまでもない。

 

 政治が安定の兆しを見せてきた慶長十八年(1631年)三朝高僧真影、上宮太子御影(御裏書現存)良如下附には依然、興正寺門徒 明厳寺との明記があり本願寺派に属していないことを意味する。時は流れ、寛政六年(1794年)明厳寺を浄土真宗へと化導してくださった本願寺中興の祖、第八代門主 蓮如上人書像が、第十八代門主 文如から下附された。現存する御裏書に越前国今立郡中戸口村明厳寺と記載されており、興正寺門徒とは書かれていない。

 

このころには本願寺派 明厳寺と認識されてこられたのではないかと思われる。

 

 慶應寺、勝慢寺、明厳寺と改称されていく中で、慶應寺、勝慢寺で十二人の住職、明厳寺となって十四人の住職が職務をつないで現在に至る。

 

                              平成三十一年(2019)正月

                               第二十六世

                               釋  義紀  

【明厳寺寺宝】


阿弥陀如来絵像

蓮如上人絵像

現存するお裏書


【お寺の風景】